本当はサブブログで書こうと思ったことなのだけど、このブログのテーマ「新しい世界の切り取り方」に一致するので、こっちのメインブログで書いてみようと思う。
20代も半ばの頃。自分の地元の友達が連れて行ってくれた小さな焼き肉屋があった。
10畳ほどのお店に隙間風が吹くガタガタの入り口で、ほぼカウンターしかない15席くらいのお店。真ん中に店主がいて、お酒を作ったり、炭を用意したリ、肉を用意したりする。お通しは店主曰く”ババアが作った”キムチ。このキムチがメチャクチャおいしくて、これだけで1杯飲めてしまう。
ここが地元の友達であの西郷どんの行きつけのお店だった。
紹介されてから、自分ともう一人の友達は飲みに行くと、ここに顔を出すようになって、いわゆる行きつけのお店になった。
店主は30代半ばで、自分たちよりは年上。離婚も経験しており、子供がいる人だった。自分たちにとっては兄貴みたいな人で、色々な相談をできる人であった。そういうことも含めて、今考えれば、店主はとにかく距離感をとるのが上手い人だった。
ある時は自分たちがお姉ちゃんのいるお店に行って、スゴイ失敗をした後に訪れて、状況を説明したところ「そういうことはある。安いお店に行けばそういうことはある」と当たり前と言えば当たり前の教訓をくれたことがある。
ある時は、一緒に通っていた友達が既婚者を好きになってしまい、とにかくその人と何とかなりたいが、アプローチをかけたが断られて凹んでいるという話をして「経ろ。とにかく経ろ」と吹雪が止むまで待機だとの如く、留まるという説教をしてくれたことがある。
これ以外にも、普通に飲みに行った二次会に寄って、お客さんが誰もいなくて小さいテレビ(15型くらい)で映画を見て飲んだしたこともあったし、3次会くらいに顔を出して、たまたまお店をやっている別な店主さんと出会って、そこのお店に行ってめちゃくちゃおいしい思いをしたりと、エピソードに富んでいるのがこのお店だった。
ある時期に、店主さんが酒の飲みすぎが原因で体を壊してしまって、そのお店はなくなってしまった。
結局、行きつけのお店で得た経験は以下のものだ。
・店主とのコミュニケーション
・悩み相談を受けてもらう
・客同士のつながり
この中で、店主とのコミュニケーションが一番大事だったことは言うまでもないが、結局、美味しいものを食べ飲みして、それ以上の価値をくれたことが自分には大きかった。そう、自分たちの世界を広げてくれて、一人でいることの淋しさを忘れさせてくれたのだ。別に自分の世界を広げて欲しいと思って行ったわけではないが、そこに来る人が個性的で面白い人ばかりで、いつも通りの自分ではいられない。面白いから話を聞きたくて、自分を変えて抑えて話をするとメチャクチャ楽しかったりする。何より、寂しさは痛みみたいに分かりやすく五感に訴えてくるものではなくて、後でよくよく考えてみると”これが寂しさだったんだ”と思うモノなのだ。誰かが居なくて寂しいではなくて、あくまで何気なく何となくふと思う感覚としての淋しさを満たしてくれていたのだ。
こう考えてみると、美味しさの定義が揺らいでくる。
食べたモノ・飲んだものが美味しいと思えることっていくつかパターンがあって、「それ自体が美味しい」、「組み合わせると美味しい」が大きなものだと思う。本当に美味しい焼肉なんかは「それ自体が美味しい」のだけど、「牛タンにビール」なんてのも合うのでこれは「組み合わせると美味しい」に当てはまる。*1
美味しいはそのものの味以外に結構左右されるのだ。「それ自体が美味しい」以外にもたくさんのパターンがある。例えば、自分が好きな人と一緒に食べたものは美味しく感じる。本当のところは、その人と一緒にいられることに価値があるので、食べ物とか飲み物はどうでもよくなるのだけど。もしく「は、A5ランクの松坂牛ですと言われて食べた肉は美味しく感じる(実際にそれなりにお金も払うことになるし)。だからこそ、食品偽造は困ったもんだと思うのだけど。
そういう場を自分は失ったのだ。自分を普段以上にオープンにしても受け入れてもらえ、新しい経験ができる場を。その場をイメージして、行きつけのお店を探すのだけれど今まで積みあがったものもあってなかなか苦戦することになる。まるで長年連れ添って別れた元恋人の良さを探すように、新たな出会いを探すようなものだ。そんなもの何年もかけて積み上げたモノが一瞬で積みあがるなら簡単だ。
これから新たな行きつけのお店を探す旅が始まるのだけれど、それは後編で書くことにする。
こちらからは以上です。
*1:そもそも、ビールは色々な料理に合わないことはないし、いろんなシーンで万能なんだなと思う。