Jailbreak

新しい世界の切り取り方

ギターソロは自由なんだ

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どうしてもCDだとか音源で音楽を聴いていると、当然毎回同じ展開で、同じ繰り返しがあるので、そういう作品なんだと理解する。この辺の流れは当然なのだが、ライブになるとこれが壊されることがある。

自分はMr.Bigが大好きで、ギターのPaul Gilbertは特に好きだったりする。

Paulのギターはリズムの符割がキレイで気持ちよく、ライブでも基本的には音源と同じギターソロを弾く。この再現度の高さがやっぱりすごいなと思わせてくれるギターである。

そんなMr.BigがPaul不在の時期があり、そこでギターを弾いたのがRichie Kotzen。ジャズやフュージョン畑も跨いで、幅広い音楽性を持っていて、Paulのポップスやメタルのバックグラウンドとはまた違う方向性を持ったギタリストである。そんなギタリストとMr.Bigの他のメンバーとが制作したアルバムが1999年の『Get Over It』だった。そして、その中のシングルカットされた「Static」がハードロックとブルースを掛け合わせた非常にカッコいい仕上がりの曲だった。この「Static」のシングルにはライブ音源が入っていて、そこのギターソロがアルバムやシングルのギターソロとは全く違うラインのギターソロだった。

 ラストのキメ以外、ほぼ元々のギターソロとは関係ないフレーズが飛び出すのです。ここで、自分は気付いたのです。そもそも、この楽曲のギターソロは、ラストのベーストのユニゾン以外はアドリブなんだと。実際、2002年のライブ盤『In Japan』の「Static」でもRichieは自由にギターソロで駆け回るのです。

Paulは楽曲自体のギターソロはスタジオバージョンをそのまま弾くスタイルで、アドリブゾーンに入ると初めてアドリブを披露する。例えば、楽曲の最初にギターやベースの掛け合いなんかをライブでは見せてくれる。これに関してはアドリブと見せかけて、ライブ盤をいくつか聴いていくときまったスタイルがあるのだけど、ライブバージョンの良さとしよう。それに対して、Richieはとにかくギターソロはアドリブばかり。さすがにキメこそ合わせるが、とにかく自由だ。

 

よく考えてみると、ライブではスタジオ版と同じ演奏が聴けるのは、再現性という意味で価値がある。特にMr.Bigのようなテクニカルなものを目の前で演奏してもらえるのは、それだけで価値がある。その一方で、そのライブでしか聴けないアレンジや、演奏を聴ける希少性という意味で価値がある。その時だけしか聴けないものを聴けるのがライブの価値と言える。この2つの再現性と希少性のバランスがライブの価値とも言える。そんな時、ギターソロくらい違う演奏をしてもよさそうなもんだと思ったのだ。

 

よく考えてみると、自分が聴いたことがあるライブ盤では、ギターソロがCD等の音源と異なる演奏をすることがあった。昔従姉妹から貰ったカセットテープの中に、Rainbowのライブ盤である。今となっては、どんな音源かは思い出せないが、Rainbowにも関わらずDeep Purpleの楽曲を演奏していて、「Burn」や「Smoke On The Water」みたいな名曲を演奏していた。

アウトロならまだしも、曲中のギターソロが原型をとどめていない。 これが必ずしもいい演奏とは限らない。原曲の方が良かったかもしれないが、残念ながら決まった形のギターソロは弾かないのが、Ritchie Blackmoreである。何より、Ritchieは自由だからこそ、Ritchieなのだ。

 

ギターソロくらい、自由な方がライブの姿としては良いのではないかと思う。上手いギタリストのインプロビゼーションを聴けるというのは、それだけで価値がある。そういう音楽の変化があるライブを聴けると、ちょっと得した気分になる。

 

こちらからは、以上です。

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